現在のネイル・ビジネスの隆盛ぶりをマスコミは“第三次ブーム”と呼んでいるが、それでは、第一次ブームとは、何時だったのか、そのへんをお話ししましょう。サザン・カリフォルニアの高級住宅街ビバリーヒルズの外れに日系人のおばさんが経営する美容室「メナージュ・ア・トア」があります。日本から行った美容留学生でお世話になった子は数え切れないほどいます。ヘアーのブースが10、ネイルのテーブルが4〜5位ある中型サロンで、常に5,6人の日本人が働いていました。山崎充子もその中の一人でマニキュアリストとして活躍していましたが商社マンであるご主人が日本へ転勤することになり、それをきっかけに東京でチャレンジしたいとの強い要望が後見人のLA美容師のボスを通じてあり、コーディネイトを引き受けました。そして、オーナーがカリフォルニアで活躍したことのある六本木の美容室「インターカット」にネイル・コーナーを設けることになりました。
当時の日本では、ネイルを愛好している人と言えば、ジョン・シェパードさん位でまだまだ知名度は低く、充子のタレント性を引き出しプロモーション活動をするために、ご本人のLAでの経歴、ポリシー、そして愛称までをつくりあげ、ここで「アン山崎」という名前と「ビバリーヒルズからやって来たネイリスト」としてのイメージが誕生しました。
きっかけとなったのは、後年いろいろな問題がおきてしまったので名前は伏せますが、タレントのMYさんがLAのネイル・サロンに出入りしていたのをよく見かけていたので、「日本でも出来るようになりましたヨ」と教えてあげたら、すぐに常連客になってくれ、親分肌の彼女の紹介で、若いタレントさんが訪れるようになり、芸能界・ファッション界から有閑マダム・水商売まで浸透し、マスコミも上流社会の技術職と書き立ててくれました。これが第一次ブームと言われるものです。
これを機会に講習活動をスタート。初期の受講生には現在著名なネイリストとして活躍している人も可成りいます。サロン活動に於いても後年独立した「ネイルバンク」を始め、一流サロンに成長した「ロングル・アージュ」「リボーン」などこれら全て彼女の遺産とも云えよう。

アツコが愛したフレンチネイル
アメリカンナイズされた彼女のバイタリティ溢れる行動力には、振り廻された人も多かったでしょう。本人には他人に云えぬ病があり心配していたが無理がたたり、野望途中で逝ってしまったのは、たいへん惜しまれます。しかし、業界現状を見るとアンイズムはあちこちで生きており、サロンの客扱いポイントから、スクールの高額の受講料まで、良くも悪くも影響を与えています。
最後にアン語録を並べて書きましょう。
「アメリカでは、ごく当たり前の身だしなみ」「日本人の爪は比較的強いが、白人の爪は薄くて弱い」「たかがネイル、されどネイル」「爪のおしゃれは心の余裕の象徴」「爪は身体の一部である、ベーシック・ケアを大切に」「まずベースがあって、そこにカラーを加え、さらにイメージを拡げていくべき」・・・
写真を提供してくれた一番弟子の合志知江子さんは、「今日あるのは、アン先生のお陰です」と結んでくれました。
<1997年10月記 原文>